様々な有田焼

元々、佐賀と長崎の県境で約400年もの間、焼き物を作り続けています。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れてこられた陶工たちは
江戸時代の初期に磁器を作り出します。
その時は佐賀・長崎を肥前と呼んでいました。

肥前の国には藩がいくつもあり、鍋島藩・大村藩・平戸藩が
今の佐賀・長崎の県境に位置していました。
幕の頭山頂に立つ「三領石(さんりょうせき)」は三つの藩の領土を意味し、
薪窯の時代は互いに領地を侵して薪を盗んでくることも日常的で
激しい争奪がおこなわれました。
大村藩は現在の波佐見焼、平戸藩は現在の三川内焼、そして鍋島藩は有田焼です。

この当時は現在の市町村とは異なり、鍋島藩であったため、有田焼に関しては
有田の現在の赤絵町を中心とした内山、その周りを外山、
さらに周りを大外山と呼んでいました。
吉田焼はこの有田大外山に位置しているのです。

ひとえに有田焼といっても赤絵町、南川原、外尾山、黒牟田、応法、うーたん、など
沢山の小さな地域があり、吉田山もその1つです。
つまり、鍋島藩の地域で作られている焼き物は
有田焼として広く親しまれてきたということです。

吉田焼の歴史

吉田村にて磁鉱発見

天正五年(1577年)、佐賀の龍造寺隆信公は大村の有馬氏を攻略せんと軍を起こした。
この時の案内役は吉田の城主、吉田左衛門大夫家宗である。
大村に向かう途中、吉田村を流れる羽口川の上流、鳴川谷にさしかかった時に、
部下のひとりが大声で叫んだ。
川の底に、白く光る石を発見したのである。
隆信公は兵を止め、川底を改めた。
これが我が国最初の磁鉱石であるという。
この当時、日本にはまだ本当の磁器はなかった。

朝鮮陶工、吉田山で陶業をはじめる

数年後、鍋島直茂公は朝鮮半島から多くの陶工を連れ帰り、
そのうちのひとりを吉田山へ送りこんだ。
陶業を創めようとするが、隆信公が発見した磁鉱だけでは足りずに
吉田村皿屋鳥居原に陶土を求めた。
これを加えて、初めての陶磁器が作られたのである。
その後、皿屋付近は12戸の製造者ができるまでになるが、
寛永年間に李参平が有田・天狗谷に磁鉱を発見すると、
陶土のほとんどが有田にて採れるようになり、
吉田山はこのあおりを受けてしまう。
人材、燃料の不足が起こり不況にたたされるのである。

鍋島直澄、大いに陶業に力を注ぐ

鍋島直澄公の時代、直澄公は陶業の将来性に着目して、大いに振興に力を入れている。
有田南川原より副島、牟田、金江、家永の四氏を派遣して指導にあたらせた。
小窯を廃止して大窯を造り、物資の補給など、多くの優遇措置をほどこしている。
藩政をゆずった後も永く陶業の発達に力を入れるよう計画まで立てている。
吉田焼を含めた、いわゆる有田焼が永遠の発展をするための基礎が、
直澄公によって確立されたのである。

天草陶石の輸入

正徳二年の天草磁鉱の発見は、陶業界に革新の光を投げかけた。
吉田山も、塩田港から天草陶石を輸入することにより、製品の質が向上していった。
さらに藩命により御用焼の指定を受けると、一層の技術進歩がみられ、
優れたものが生まれるようになる。

大阪との取引開始と不景気の襲来

文化・文政年間(1804年頃)に入り、大阪方面との取引が始まると、
吉田山は大いに潤い、品不足になるほど空前の隆盛を迎えている。
しかし天保の初めの頃(1830年頃)には生産は過剰となり、
価格は下落して経営が困難になるが、
好況時代に慣らされた豪勢な暮らしぶりはさらに悲境へと拍車をかけていく。
他の陶業地が好機に向かうきざしを見せ始めても、
すでに資力が枯渇してしまった吉田山には打つ手がなかった。
この状況を見かねた藩主は、尾形惟晴を派遣して再興の策をうつことにした。
復元に成功した吉田山は以来、一盛一衰にて明治維新を迎える。

陶器製造会社「精成社」の設立

明治維新後、政府は産業を奨励し、吉田山では旧士族の出資を中心とした
精成社(社の窯)という陶器製造会社が設立される。
明治13年のことである。
この時期、陶業界は非常な好景気を迎えていた。
従来の共同用の三登り窯を廃止して、個人用の新窯を続々と造っている。
ところが明治初年の陶業界の好景気も、世間一般の不景気の影響を逃れることは出来ずに、
明治16年には大不況の波が押し寄せる。
その結果、販路を中国へと求めなければならなくなっていった。

中国との取引に成功

その当時、長崎に住んで商売を営んでいた中国人と、
大規模の契約に成功したのが副島利三郎である。
これをきっかけに吉田山では中国向けの製品を作り、再び活気を取り戻していく。
このときに大串寅二朗、石井種五郎、山口又七らが製造家として地位を築いている。
中国が頼りのこの好機は、日清戦争が始まり、中国商人が自国との輸出入便利な
神戸へと住まいを移っていくと、自然消滅のかたちをとらざるを得なかった。

日清戦争の大勝、朝鮮との貿易

次の盛況が吉田山に訪れたのは、朝鮮との取引が始まった時である。
明治22年、朝鮮の商人、恒春號、丁致国の2人が石井種五郎の紹介によって
岡三平、大渡權蔵、山口又七との特約を結ぶと生産は増大することになった。
日清の国交が断絶して朝鮮の地を戦雲がおおいはじめると一時取引は途絶えるものの、
山口又七が先駆けて朝鮮京城に近い仁川港に支店を置いた。
ついで大串音松は、伊万里の商人が朝鮮との貿易を結び、吉田焼の販路拡張に努めた。
日清戦争の大勝は吉田山に大きな利益をもたらす。
朝鮮に渡った日本人はいたる所で陶器店を開業すると、
競って吉田山に製品を求めに訪れた。
さらに製造者が直接に輸出したり、店を構えるなどして益々繁盛していったのである。

ついに錦絵付を完成

精成社が創立されたころ、錦絵の研究は盛んにおこなわれていたが、
完成をみるまでにはいたらなかった。
明治44年に有田より錦絵の経験をもつ梶原墨之助を迎えて、
副島茂八の手により吉田山でもついに錦絵付に成功することになる。
吉田焼は錦絵の完成でさらに名声を高めていく。

大正を経て現代へ

朝鮮への販路を独占していたために活況が続いていた吉田山は、
大正10年頃から販路に侵入してくる尾張・美濃の製品に悩まされるようになった。
尾濃製品に刺激を受けた吉田山の一行は、
製陶法の改良を真剣に考慮するがために尾濃陶業地へと視察に出向くのである。
当地から戻った一行はさっそく窯の改善に着手して
従来の窯を廃止すると石炭窯に切り替えた。
生産費の低減をはかると共に、素材や技術の改良にも努める。
しかし、勢いのついた尾濃製品と世界大戦後の不景気に押されて、
ついに朝鮮への販路はあきらめることになる。
再び国内向けの品作りに励み、昭和時代を迎えていく。
今では燃料も、石炭から重油、ガスへと移り変わっていった。
そして現在の吉田山では、それぞれに個性溢れる窯元が吉田焼の再びの隆盛を目指して、
日々技術の向上に励んでいるのである。